白い鳥
あらすじ
男の子が、お母さんに教わって白い折り紙で鳥を折る話。
太陽がじっくり海に潜っていくのを、今日は全くきれいだと思えなかった。
かんかん照りの後で出来上がった入道雲の隊列から、赤橙色の布を差し込む太陽は、まだまだ僕を石の階段にはりつけておくつもりらしかった。太陽が潜った分だけ黒色の面積を増やす海だけは理解を示してくれているようで、ただぼんやり座っているだけでも少しは気持ちが整理されてきた。座り込んだ石の階段は、一日中吸い込んだ太陽の熱でおしりを焼いている。黒いランドセルを抱えた僕は、もういちど帰りの会で言われたことを頭の中で繰り返した。
『今月最後の土曜日は授業参観があります。十二年間育ててもらった、お母さんやお父さんに感謝のお手紙を書いてきましょう。今日の宿題は、お手紙の下書きをすることです。』
そんなことを言われても、お母さんはいないし、お父さんも出張で長いこと会っていない。家には兄ちゃんとたまに来る婆ちゃんだけ。感謝する相手はお母さんやお父さんよりも、兄ちゃんが正しい。兄ちゃんは、僕の、たったひとりのシンセキなのだから。
兄ちゃんのつくるご飯は婆ちゃんに教わったものだ。だから美味しい。だけど、お母さんの作るご飯はもっと美味しい。お父さんの帰る日はもっともっと美味しい。
お母さんは、お父さんのことをすごく好きだった。お父さんが帰ってくると聞いた日の夕ご飯はすごく豪華で、それには必ず、魚の入った煮しめがある。それはブリだったりカレイだったりした。ありったけの鍋を使って、台所をせわしなく動き回るお母さんの姿はすごくきれいで、もし天国で女神さまに会ったらこんな姿なのだろうと思っていた。和食のフルコースを作りながら、きれいな白いワンピースを着て、きれいな口紅を塗って、そわそわとお父さんが帰ってくるのを待っていたお母さんをよく覚えている。でも、お父さんは帰ると予告した日に帰ってくることは一度もなかった。お母さんはそれを知っているのに毎回準備をする。四年生だったぼくにはそれが許せなくて、お母さんにもう作らなくていいよと言ったら、すごく悲しそうな顔をされた。
「タケル、そんなこと言わないで。もしタケルが長いこと外国に行って、帰ってきたとき誰もおかえりなさいって言ってくれなかったら寂しいでしょう。お父さんも一緒よ。ね。もう少し待ってみようね。」
お母さん。もしお母さんが帰ってくる日を教えてくれたなら、僕はお母さんの大好きなパンケーキとお味噌汁を作って待っているよ。お母さんはそれを同時に食べないことを知っているけれど、どっちも作って待っているよ。本当は生姜焼きが好きだけど、カレイの入った煮しめでもいいから、お母さんのご飯が食べたい。それから、手持ちの中で一番格好いいパーカーを着て、兄ちゃんの整髪剤も借りて、大人になったねって言われるくらいちゃんとして、お母さんを待っているよ。いつ帰ってくるの。お母さん。
「タケル、ご飯作るぞ。帰ろう。」
兄ちゃんが中学校の帰り道に僕を見つけた。なんとなくばつが悪くて、一緒には帰りたくなかった。
「いやだ。」
「言う事が聞けない奴は夕飯抜きだぞ。今日は豚肉が安いから生姜焼きにしようと思っていたのにな。」
「生姜焼きは食べたい。」
じゃあ急いでスーパーに行かないとな、と僕の手を引くから、しぶしぶ立ち上がって帰路についた。もう太陽は完全に海に潜っていた。
*
「はい、じゃあ昨日の宿題を出してね。……タケルくんは、どうしたの?白い鶴の折り紙?」
「そうです。折り方はお母さんに教わりました。」
「先生は折り紙じゃなくてお手紙を書いてきてほしかったんだけどな。その中に書いてあるの?」
「はい。でも、おまじないを掛けたので、お母さんしか鶴を開けません。」
「そうか。じゃあ先生に見せてもいいようにお手紙の内容をもう一度書いてもらえるかな?」
「いいえ。先生は読んだらきっと怒ります。だから見せません。授業参観でも絶対に読みません。」
「それじゃあ困っちゃうよ。タケルくんのお母さんもお父さんも、タケルくんに嫌いだとか死んじゃえとか言われたら傷つくでしょう。そんなに大変な内容なら、先生が見ておかないと。」
「心配しないでください。見せる人は家にいないし、読む気もありません。先生に捨てられてもゴミ箱から絶対に拾います。書き直しができないんです。先生。わかってください。僕、真剣なんです。」
「ああ、小碓(おうす)くんは親戚不在だったね……わかった。じゃあ、放課後、先生と一緒にお兄さんへのお手紙を書こう。いつもありがとうございます、これからもよろしくお願いします、って。」
「わかりました。でも僕は、この鶴の中身しか読む気はないです。僕を指すんだったら、先生が僕のふりをして手紙を書いて、読んでください。僕はその日、学校には来られないのです。どうしても、どうしても来られないのです。」
「ええ?どうして?」
「お母さんが、帰ってくるからです!」
*
兄ちゃんと大荷物を抱えて帰ってくると、僕と兄ちゃんの名前が書いてある白い封筒がポストに入っていた。兄ちゃんが、そうっと封筒を開けて、中に入っていた手紙の字を追うと、たちまち苦虫を噛み潰したような顔をした。読み終えたその紙をぞんざいに僕に渡すと、お前が読みなさいと言って冷蔵庫に戦利品を詰め込みに行ってしまった。
しばらく会わないうちに、大きくなったでしょうね。お元気ですか。私はいま、お父さんと一緒にフィラデルフィアにいます。どうしてもお父さんに会いたくなって、お前たちをそこへ置き去りにしてしまいました。申し訳なく思っています。
さて、お母さんは自分の荷物を取りに帰ろうと思います。今月最後の土曜日には帰られると思います。お土産を持って帰るから、楽しみにしていてね。
お母さんより
僕はもうどうしていいかわからなくなって兄ちゃんに飛びついて背中をビシビシ叩いた。お母さん、お母さん、やっと会える。僕は貯めていたお年玉をつかんでまたスーパーに走って行って、ホットケーキミックス粉とわかめと豆腐を買って飛んで帰った。兄ちゃんは目を真ん丸にして、「お母さんのことだけはよく知ってんのな、お前。」と不機嫌そうに夕飯作りを始めてしまった。
太陽が昇ってくるのにも気がつかないで、僕は婆ちゃんがくれたパソコンでおいしいパンケーキとお味噌汁のつくり方研究を始めた。まだレシピをたくさん調べただけだが、あと一週間もあればお母さんの帰ってくるのと同時に完成する予定だ。パンケーキの焼き方や生地の配分だけではなく、ジャムやソースにも種類があるらしい。お母さんがどんなソースを欲しがってもあげられるように、調べた分だけ全部作るつもりでいた。お味噌汁は兄ちゃんがつくり方を知っているので、その仕事は兄ちゃんに任せることにした。僕は有頂天になっていた。宿題のことなんて、もうどうでもよくなっていた。
兄ちゃんが朝早く学校に勉強をしに行ってから、僕は学校に行く前にもう一度お母さんの手紙を読み返そうとして大声を上げた。「二枚重なっている!」
追伸
おまじないを教えてあげます。お母さんがお父さんに会えない時、ずっとかけていたおまじないです。よく読んで、しっかり覚えてください―――
僕は道具箱から引っ張り出してきた折り紙を必死になって折った。完成したころにはもう遅刻するギリギリで、石の階段を使わないで学校に行かなきゃいけなかった。
―――白い紙で鶴を折ります。そうしたら、今いちばん辛いことを思い浮かべて、鶴に息を三回吹きかけます。これでおしまいです。
息を吹きかけられた鶴は、あなたたちの辛いことを、きっと身代わりに引き受けてくれるでしょう。これがおまじないです。
僕はその鶴を机に置いて、もう一枚新しい折り紙をもって家を出た。草むらとフェンスの穴と、知らない人の家の後ろを縫って歩きながら、学校に着くまでにもう一つ鶴を完成させた。ふうふうふうとやっていたら先生に宿題のことを言われて、とっさにそれを出してしまったのだ。僕はそれをポケットに入れると、またすっかり忘れて一日を終えてしまった。
「タケルくん。今日は居残りでお手紙を書くんでしょう。お母さんでもお父さんでも、お兄さんでもいいから。授業参観で読み上げられるようなお手紙を書いてから帰るのよ。」
「わかりました、先生。何に書けばいいですか?」
「原稿用紙を渡すわね、はい、これよ、これに少なくとも半分は書いてちょうだい。」
「ありがとうございます。じゃあ、兄ちゃんに向けて書きます。兄ちゃんへ……」
何を書いたのかは全く覚えていない。必死に原稿用紙を埋めて、太陽がすっかり潜ってもまだあたたかい、石の階段を全速力で走った。パンケーキ研究をするために、兄ちゃんが居残り勉強から帰ってくるのも待たないで帰った。
そんな日が何日か続いた。今月の終わりまでは兄ちゃんの帰りを待たないで家に帰ることにしたので、自分で家のカギを開けた。パンケーキとお味噌汁の研究もほとんど大詰めに差し掛かかり、スーパーに並ぶホットケーキ粉の特性をつかみ始めていた。
「ただいま!」
誰も家に居なくても、そう言うことは習慣である。靴を放り投げて台所に向かうと、白い布がひらりと僕を振り向いた。僕は息を飲んでその人の顔を見た。そして今度こそ、何も言えなくなってしまった。
「おかえりなさい、タケル。」
お母さんその人であった。
いつもお父さんを待っていたような、白くきれいなワンピースを着て、きれいな口紅を付けたお母さんがそこに立って煮しめを炊いていた。レンコンやニンジンは、昨日の兄ちゃんの買い物リストになかったから、きっとお母さんが買ってきたんだろう。煮しめの材料がどこから現れたのかは冷静に判断できたけれど、お母さんがどこから現れたのかは、おかあさんがここにいるという事実に頭がいっぱいで考えもつかなかった。
「お母さん、」
「なあに。」
「ずうっと会いたかったんだ!どうしていなくなっちゃったの!僕よりお父さんの方が大切だったの?お父さんの方が、僕よりも好きだったの?僕にはお母さんが必要だったのに!ずっと、ずっと、ずうっと待ってたんだよ!さみしかった!悲しかった!でも兄ちゃんに僕の悲しい気持ちが伝わってほしくなかったから僕は、僕はずうっと我慢してたんだ!お母さん!もうどこにも行かないで!僕の、僕だけのお母さん……」
金切り声で喚きたてたあとで、はっとお母さんの顔を見ると、また悲しそうな顔をしていた。そして笑った。仕方のない子、と言われた気がした。僕の頭を撫でて、すっかり出汁の色に染まった煮しめを皿へ移した。
そこでやっと、僕はお母さんにパンケーキとお味噌汁を作ってあげることを思い出した。まだ完璧ではないけれど、お母さんを満足させられるパンケーキだという自信はあった。僕はお母さんを椅子に座らせて、最初に買ってきた一番高価なホットケーキ粉の封を開けた。
「待っててね、今作るからね。」
いきなり料理を始めたのがいけなかったのか、最初はにっこり笑いながら僕を眺めていたお母さんは、僕が生地を練り終えた頃にはすっかり眠ってしまっていた。幼稚園に通っていたときに一緒にお昼寝をしてくれていた時のそのままの表情で、きれいに背筋を伸ばしたまま、生きているのか死んでいるのかもわからない顔で、眠っていた。あまりにもその顔がお面のようだったので、僕は息をしているか確認した。お母さんは、ちゃんと鼻から息を吸って、吐いていた。
パンケーキの生地をフライパンにあけたら一瞬の油断もできない。ただじっとそののっぺりした生地の表面にできた気泡を数えた。僕の研究では、八十五個になるくらいでひっくり返さなければならない。ドキドキしながらフライ返しを二つ持って、八十五個目の気泡ができるのを待った。
ふっくり。
気泡ができたその瞬間にフライ返しを生地の下へ差し込んで、音を立てないようにそうっと、しかし素早くひっくり返す。パンケーキは狙った通りのきつね色に焼けていた。
「お母さん、見て!僕、こんなに上手くパンケーキが焼けるようになったんだ!」
振り返ると、お母さんはいなかった。
お母さんがじっと炊いていた煮しめも、なくなっていた。
いまさっき、パンケーキを焼く前に座っていた椅子は何事もなかったかのように、暮れかかる鋭い夕日を受けて赤橙色に染まっている。兄ちゃんが玄関を開けて帰ってくる音がした。
*
プルルルル
「もしもし。」
「小碓くん!」
「先生。どうしたんですか。」
「どうしたんですか、じゃありません!なんですかあの作文は!パンケーキのつくり方をつらつらと!先生を馬鹿にするのもいい加減にしなさい!」
「先生。僕は今日休むと言いました。先生にも作文を提出しました。最初は兄ちゃんに向けて書くつもりだったんです。だけどお母さんのことを思い出して、お母さんのことを考えていたら、いつの間にかそうなっちゃったんです。だからそれは、お母さんへのラブレターなんです。お母さんは、パンケーキが大好きだから。」
「意味の分からないことを言って煙に巻こうったってそうは行きませんからね。今度こそしっかりと感謝の手紙を書いてちょうだい。授業参観は二時限目なんだから、今から学校に来て書いてもまだ間に合います。いいわね。今すぐ学校に来なさい。」
「行きたくありません。」
「いいえ、来るのよ。小碓くんが親戚みんなに煙たがられているのは聞いているわ。引き取り手がいなかったことは同情する。だけどあなたが学校に来ないことで非難されるのは私であり、クラスのみんななの。小碓くんをみんなが虐めているから来ないんだって思われてしまうのよ。あなたに親戚がいないばっかりに。小碓くん一人のために、みんなが校長先生や他のお父さん、お母さんに変な目で見られてしまうのよ。それは嫌でしょう。」
「先生。先生の嫌なことがあるなら、白い紙で鶴を折るといいですよ。身代わりになってくれるそうです。お母さんが言ってました。僕はそのおかげでお母さんに会えたんです。
あれは確かにお母さんだった。だけどお母さんではなかった。あれは鶴だと思います。鶴がお母さんになったんです。僕はさっき気づいたんです。でも気がつきたくなかった。今日の朝兄ちゃんが、机の上に置いてあった鶴に、僕の髪の毛が挟まってくちゃくちゃになっているのを見つけました。僕からお母さんが現れたことを聞いて、この鶴を見た兄ちゃんは、僕がお母さんに会えないのを我慢しすぎていること、兄ちゃんはお母さんのことが大嫌いであること、僕がお母さんをお父さん以上に大好きであることなんかを、みんな教えてくれました。
そうです。僕はお母さんのことを大好きでした。とてもとても大好きでした。お母さんは僕を息子としてとても可愛がってくれました。今でもきっとそうでしょう。今日帰ってくるという事をひと月も前に教えてくれたんだから。だけど、お母さんはお父さんの方が大好きなのです。僕は去年のバレンタインデーにクラスの女の子から告白されました。そのとき、聞いたのです。男の子を好きになる気持ちは、どんな気持ちなのかって。そうしたらその子は、『その人と一緒にいるためにはどんな手段も使ってやる』という気持ちだと教えてくれました。申し訳ないことに僕はその子に対してその気持ちを持っていなかったので、そう伝えると泣いて走って行ってしまいました。
そのとき気がついたのです。僕にとって、どうやってでも一緒に居たいと思う人はお母さんなのだと。だからきっと、僕はこれから毎日鶴を折るし、お母さんもいなくなる前まで毎日、鶴を折っていたんだと思います。
兄ちゃんは、お父さんの前のお母さんの子供です。だから、高校生になったら遠いところにいるそのお母さんの所へ行って、そこで暮らすのだと、最初に会った時から言っていました。そのために毎日朝早くから夜遅くまでずうっと勉強しています。僕は中学生になったら、僕のお母さんのいるフィラデルフィアの学校に通いたいです。お母さんには内緒で、婆ちゃんに連れて行ってもらうのです。きっとお母さんは喜んでくれるでしょう。
先生。先生の嫌なことがもし、僕の作文をもうすぐ読まなくちゃいけないことなら、もう先生が僕のことを勝手に想像して書いてくれて構いません。僕は、先生が嫌な思いをしようと、クラスのみんなが嫌な思いをしようと、どうでもよいのです。だって感謝するべきなのは兄ちゃんだけどもうすぐいなくなってしまいます。お母さんには大好きだと伝えるべきだし、お父さんには伝えたいことなんて何もないんです。婆ちゃんも爺ちゃんも好き勝手に生きています。先生。僕にはシンセキなんて、誰もいないんですよ。」
電話は、僕が話し終えた瞬間に切られてしまった。
おわり
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